八咫烏神社
について

御由緒

当社は、我が国の草創期の正史のひとつである『續日本紀』に「慶雲二年九月丙戌八咫烏社于大倭國宇太郡祭之也」と記述が見えることから、これを以て当社の創祀と伝えられています。なお、慶雲二年とは西暦七〇五年にあたります。

御祭神は、古事記や日本書紀における神武東遷の段において吉野山中で停滞する一行を大和へと道案内し、天皇の勝利に貢献した八咫烏大神です。またの名を建角身命(たけつぬみのみこと)と称えています。建角身命は「新撰姓氏録」の伝承によれば、神武天皇をお導きする際に「八咫烏」に化身せられたとも伝えられています。

このような御由緒から古来、軍神として崇敬され、南北朝時代には後醍醐天皇の篤い信仰により社は大いに栄えたと伝えられています。

しかし、南朝の衰退と度重なる戦禍に見舞われて以後は祭典こそ続けられていたようですが、社は朽ち果て廃絶寸前の状態となり「をとごろす」という俗称が残ったほどだと伝えられています(なお、境内の奉納灯篭の年代から祭典は定期的に行われていたことが窺えます)。

やがて、江戸時代中期、文政年間に京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)の神官の目にとまり、その働きかけと在郷有志の協力により再興されました。本殿が現在のような春日造に作り替えられましたのもこの頃です(なお旧本殿の石造小祠は今も本殿の横に現存しています)。これ以降、例大祭の折には賀茂御祖神社から奉幣使が送られ、祭典が執り行われてきましたが、奉幣使をともなう大祭は、当時わずか九戸ばかりの氏子には負担が大きかったことや奈良縣令の指導も相まって、賀茂御祖神社の参向は明治時代の初めに取り止めとなりました。

その後、大正三年の神社合祀令により、近隣の氏神様が当地でまつられることになったため、にわかに再興しました。また、昭和の時代になって紀元二六〇〇年を記念し、社格もそれまでの村社から県社に昇格するのにともない、神域の拡張と整備が行われました。以降、現在へと至ります。

《参考資料》

「新撰姓氏録」弘仁六年 /「八咫烏神社略縁起」文政十三年庚寅年 藏人民部大丞兼左兵衞大尉大 江朝臣俊常 /「和州舊跡幽考」延寶九年、林宗甫 /「宇陀郡史料」/「式内社調査報告」第二巻 /「日本神話事典」/「日本の神々―神社と聖地」第四巻 大和 / 榛原町教育委員会


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